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東京で営業、現場として走り回る毎日~引越センター 

 
   

 勤務先が、大阪か東京かを選ぶことができました。私は東京へ行きたかったので、勤務地を東京にしました。関西で有力な引越しセンターの会社であり、その独特なCMが東京でも流れていることに、最初はビックリしました。東京のお客様も、関西弁を使う営業マンが訪問してくるということで、「本当に大阪の人が来るんだ!」って驚いてましたね(笑)。
 最初は引越し業者選定の契約を取ってくる営業の仕事をしていました。営業では、引越しの見積もりの際に、他人の家のタンスの中身が見れることが面白かったですね。滅多なことじゃ、他人の家のタンスの中身なんて見れないでしょ?(笑)。芸能人のお宅へ営業した経験もあり、その際は衣装が多くてビックリしましたね!
 逆に、辛かったことはスランプに陥ったときですね。会社の方針が、営業に行ったら即決してこいという方針。しかし、お客様は、複数の業者から見積もりをしてもらい、一番安い業者に発注するというお客様が多くて・・・。「一年目で仕事も慣れていない中、よく頑張っているから」と、新人時代はお客様も、即決をして頂けることが多かったのですが、仕事に慣れてくる時期にはスランプに陥ってしまいました。営業成績が落ちると、営業から現場へと回されたことが辛かったですね。現場は体力勝負の仕事であり、怖い感じの人が多くて・・・大変でした(笑)。
 その後、自分に引越しセンターの仕事は向いていないと思い、仕事を辞めることを決意しました。

 
   

スキー場でのアルバイト、そして印刷業界との出会い

 
   

 前職を辞めてからのことは、全くノープランでした。住み込みで、スキー場のアルバイトをした経験もあったので、スキー場でアルバイトをすればいいや!と思い、親には仕事を辞めたことを言わずに、スキー場でアルバイトをしていました。たまたま親からの電話があり、その時に、会社を辞めたことを伝えました。怒られるかと思っていましたが、怒られることもなく、実家の印刷会社で働かないか?との誘いを受け、これも何かの縁だと思い、実家で働くことを決意しました。
 当時はMacなど、パソコンが世に出てきた時期で、パソコンを使ってデザインを行うという環境へ変化している時期でした。なので、入社直後はデザインの勉強を始め、デザインの勉強会、次はビジネスの勉強会へと、勉強会に足を運ぶことが多くなりました。勉強会等を通じて名刺の可能性を感じ始めた入社12年目の頃、親の会社の調子があまり良くありませんでした。当時、印刷業界は、落ち目な業界で、自社もどんどんと落ちている状態でした。このまま会社を続けていても良くはならないから、会社を畳んだ方がいいんじゃないか?また、自分が継ぐ際も、マイナスからプラスにするのではなく、ゼロからスタートしたいと思うようになり、その旨を父親に提案すると、快諾してくれました。それをきっかけに、会社を畳んで、新しく起業することを決意し、「株式会社 わくわくアップ」を創業しました。

 
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