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さらし者にされた少年時代

 
   

私はパッケージ松浦の二代目として生まれました。
小学生低学年の頃の私は身体が弱く、協調性もなかったので、みんなとなかなか馴染めない子どもでした。
そんな私を小学校の先生は、悪いモデルとして隣接していた保育園に連れていって「この子はアホの子じゃ!みんなはこんな子みたいにならんようにしなさい」とさらし者にしたのです。
私はその時、「ぼくには生きる価値はない」と感じました。
(今だったら児童虐待でかなり問題になるでしょうね)

そんな私が、今こうして生きていられるのも、父母のお陰です。
それを聞いた父と母はすぐさま学校に駆けつけ、先生に抗議してくれました。
そして、「お前を立派な人間にする!」と私に言ってくれたのです。その時、私は「ぼくは生きててもいいんだ」と、とてもうれしくなりました。
その時の父と母の言葉が私の人生の支えになっています。

 
   

サッカーで変わりだした自分

 
   

私の通った小学校にはサッカー部がありませんでした。
でもサッカーがしたくて、両親を困らせました。
何度もお願いする私を見て、「これは本気だ」と感じてくれたのか、父と母は隣の学校のPTA会長にかけ合ってくれました。
そして、私を隣の学校のサッカー部に私を入れてくれたのです。

サッカーをすることで、体も強くなり、「自分だけ隣の学校のサッカー部に通っている」という変な優越感もあって、変な自信がついていきました。
なにより父と母、そして祖父などが毎日毎日、送り迎えをしてくれました。
このことが「私は愛されている」という自己肯定につながりました。
この私への関わりも、人生の支えになっています。

大学は広島大学の理学部にいきました。
大学1年生の時に結構勉強頑張ったら単位を沢山取れたんですよね。
「これは結構簡単に大学卒業できるぞ!」と勝手に思い込んでしまってそこからは遊んでばかりでした(笑)
そのため、4年生の時には卒業できるかすれすれのラインになってしまっていましたが、テスト前の情報種集、レポートの丸写しなど、いろいろな人から力を借りてなんとか乗り切りました。
当時からご縁を活かしていたのかもしれませんね(笑)

いよいよ卒業も迫り社会に出る訳ですが、「卒業と同時に親の会社に入ろうかな?」とも思っていたんです。
でも、そのまま入ってもちょっと格好悪いなと思いまして、修行も兼ねて包装資材のメーカーに就職をすることにしました。
会社を継ぐということはそんなに意識はしていなかったんですが、「いつかは帰って継ぐことになるんだろうな」とは思っていました。

       
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