包装資材のメーカーは、本社は徳島なんですけど、広島勤務で、営業先は山口という妙な勤務体系でした。 5年間山口県に営業させてもらってて、社会人としての基礎や、営業の手法、目標の立て方など営業マンとしてはかなり育てて頂きました。 そして27歳のとき、実家から電話がありました。 「社風が非常に悪いので帰ってきて欲しい。そして会社を改革して欲しい。」 本来なら30歳まで勤める約束でしたが、3年早く、徳島に戻ることになりました。
社内の雰囲気が悪い原因は、当時の営業部長にありました。 挨拶もしないし、社内では偉そうで、社員さんをけなしたり、協力業者さんに怒鳴ったりするような人でした。 売り上げは取ってくるけど、人間関係は壊すといったような人で、 その人のお陰で社内の雰囲気は最悪でした。 これは私の出番だと思いました。 私が社風を良くするために、改革しないといけないと思いました。 でも、実際は何も変わりませんでした。何もできませんでした。 社内の雰囲気を変える提案しても、ことごとく営業部長に潰される。 両親に相談しても「波風が立って、部長が辞めたらいけないのでやめておけ」といったような状況で「何もさせてもらえない」状況でした。 結局その時の会社の判断基準って「損得」だったんですよね。 「数字(売上)取ってくるなら泳がしておけ」という判断です。 人生で本当に大切な人間関係や、善悪という判断ではなく、損得で判断していたんですよ。 実際、当時は営業部長が社内の売り上げの半分を持っている状況でした。 社内提案もできないので、せめて自分でできることをやろうと、まずは配達を一生懸命にやろうと思いました。 しかし、「配達社員さんの仕事がなくなるのでやめろ」と指示がありました。 それならば営業に回ろうと思いました。 しかし、営業に回っても、営業部長が私の悪口をいっていたようで、「何しに来たん?来んでええよ。」と言われ事務所の中にさえ入れてもらない事もしばしばでした。 そのうち、お客さんを訪問すること自体、恐くなりました。 配達もできない。営業もできなくなってしまった。 会社にいたら「あいつ何をしてるんだ?」と冷たい目で見られる。 会社の中にも外にも居場所がなく、…仕方なく荷物も持たずに外に出て、無駄な時間を過ごし、 社内の人と会わないように出来るだけ遅く帰って、「いかに存在を消すか」という毎日を過ごしていました。 この時の私は生ける屍でしたね。
入社して一年ぐらいはそんな日々を送っていたんですけど、 二年目にサカクリーニングの坂雅弘社長の紹介で日本創造教育研究所(以下日創研)のSAという研修を受けました。 その研修で「行動することの大切さ」を教わったり、そして何より「いかに人と関わるか」ということを学ばせてもらいました。 また、LT(現在はPSV)という研修では、人間関係の課題が出されました。 多くの人とコミュニケーションをとる課題でしたが、そこで私自身が、今までの人生で、いかに希薄な人間関係しか築けていないか分かりました。 今迄、人との繋がりを大切にしてきた人って、絶対人に信頼されてるんですよね。 私はというと…思いっきり「人に信頼されていない」人間でした。 実際にこの課題に取り組んでいた時には「この人なら分かってくれる」と思っていた人から、「お前、おかしいんと違うか」と言われ、非常にショックを受けました。 「今迄の私はこんな人間関係しか作ってなかったんやなぁ…」と、痛感しました。 この時は「ご縁をご円に」とまでは思っていませんが、この時からおぼろげに縁や出逢いを大切にしたいなぁと思うようになりました。 そんな会社でも研修でも苦しんでいる時に、石原金属の副社長の石原篤さんという方と出逢いました。 それで名刺交換をした訳ですが、次の日にハガキが届いたんですよね。 --------------------- 「出逢いに感謝」 拝啓、「勝つ」というのは「与える」ということ! 全て貴方が源なのです。 二度とない人生を、一度しかない人生を、 本気で勝ってくださいね! --------------------- という内容でした。 まずハガキが来たことにもびっくりしましたし、 「今迄与えてこなかったんやなぁ」と痛感した瞬間でもありました。 「これから与える人生を歩んでいかないといけない」と心から思い始めましたね。 この石原副社長の言葉は僕の人生の心の支えになっています。 このような体験を通じて、「現状に弱音を吐いて、仕事や研修、人間関係から逃げているだけじゃいかん」と思い始めます。
2004年の秋になり、私は社内改革を始めます。 社内改革といっても、月2回の朝礼と、3ヵ月に一度の懇親会です。 今になって思えば、全く大したことではないんです。 でも、当時は社長である父に「朝礼をしたい」と相談することさえも自分の中ではかなり恐れていて、それを言った時はかなりの大革命でした(笑) しかし、私の行動が目障りになってきたのでしょう。 2005年3月、営業部長が退職願を提出してきました。 既に3~4カ月ほど前から別法人を立ち上げ、お客さんを引き抜いての独立準備は終わっていました。 お陰でパッケージ松浦の売上は半分になりました。