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芸能の世界

 
   

大阪の師匠の家では、舞踊の稽古もしていて、毎日三味線の音が耳に入ってくる様な環境でした。
そんなある日、初めて師匠がレッスンを開いている部屋をのぞき見た時に「藤娘」という舞踊をしていました。
そのエネルギッシュさが、自分の持っていた舞踊の悠々としたイベージとのギャップに驚いたのを覚えています。
そんなある時、稽古している生徒さん達が踊りを覚えられず困惑している場面に出会いました。
それまで踊ったことはなかったのですが、毎回見ていたので試しに踊ってみたんです。
すると意外にも踊ることができて“自分でも案外簡単に舞踊できるんじゃないか?”と思う様なこともありました。
実際、自分ではそれが普通だと思っていたんですが、周りは僕を見て相当驚いていたようです。
そうこうしているうちに周りから僕に対する期待が大きくなり、舞踊を舞う様々な機会を与えて貰えるようになっていったんです。
しかし実際は、自分の中では一生この芸能の世界で生きていくという覚悟はまだなく、舞踊の芸名を貰うことも全く考えていませんでした。

 
   

万博で踊った踊り

 
   

1970年には大阪万博で師匠と共に踊りを作り舞うという大役を任されます。
まだ若く多くの兄弟子も周りにいる中で選ばれ、周りからは、妬みなどの目がとても辛かった。
様々な嫌がらせもあった中で辛い日々を送ります。
そして、遂に発表の場。
師匠と万博で舞をやり遂げた時、師匠から「ようやったな。 」と一言を貰いました。
この時、何とも言えない感情が自分の心の中で一杯になり、涙が溢れてきました。
この涙は昔の失恋の時の涙とは違うんだと思うことができ、”自分が何かをすることで周りが喜んでくれる”という喜びを知った経験になる。 この出来事が今の芸能人生まで生きてきています。
そして、この時、“一生芸能で生きていこう!”と決意します。

 
   

自分の想いとのズレ

 
   

1980年、流派の方向性のずれを感じ、師匠とともに花柳流を脱退します。
そして、飛鳥峯盛という名へ。
この頃から振付・演出家としての仕事も手がけるようになります。と、同時に古代舞踊の歴史研究を始めました。
そして、そうやっていろいろなことを知っていき、自分自身の舞踊に対する想が確立していきます。
そうしているうちに、自身の舞踊観と日本舞踊界の見識とのズレを感じるようになり、1985年、苦悩の末長年の師匠の元を離れ、舞踊の世界では名無しになってしまいます。
実際名前があるのと無いのでは天と地ほどの違いがあります。
そうやって飛び出したものの自分の想いを実現することが難しく、自分の姿を見るのも嫌で鏡を二枚割ってしまうほど荒れていたこともありました。

 
       
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