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治療する業界との出会い

 
   

子どもの頃、この業界に憧れたエピソードがあります。
外で遊んでいるとき、肘の関節が外れてしまったことがあったんです。
その時痛くて痛くて仕方がなく、苦しんでいました。
そして、治療院に行きました。そこの治療院のおっちゃんがちょこっと触ったら、あら不思議!治ったんです!
その瞬間感動してしまって、「この人神様や!!」って思いました(笑)
中学からはバスケットを始めたのですが、その頃に膝と腰を故障して体育の授業すら見学しなければならない状況が続きました。
健康な時には全く気にならないことが、痛みと不安で精神的にも肉体的にもバランスが崩れてコントロール不能状態に陥りました。
どこの大学病院に行っても腰椎の椎間板ヘルニアと診断され、手術をするように勧められました。
しかし、10代で腰にメスを入れることへの不安と恐怖が強く、評判の良い整体の先生を紹介いただき、治療を受けることになりました。
その結果、高校時代にバスケットで現役復帰できるまでに回復しました。本当に好きなことを思いっきりできる安心感と充実感。何物にも変えがたい体験でした。
この出会いをきっかけに医療に携わることを決意しました。

 
   

コンプレックス”吃音”

 
   

もう一つネガティブな話があって、僕は「吃音」を患っていて結構それがコンプレックスだったんですね。
緊張すると、思うようにしゃべれないし、自分の思うことを伝えられないし。
となると、営業も無理だし、訪問販売も無理。
それに治療の世界に進むと言っても、学会の先生にまでなってしまうとみんなの前で発表しないといけない。
当時はかろうじてマンツーマンで話せたので、そう取捨選択した結果がこの業界を考えたきっかけでもあります。
それと当時は医療業界の中で、鍼灸治療関係の方が少ないということを聞いたので、人の少ないところの方が社会の役に立てると考えたので、少ないところで働こうという思いもありました。

 
   

「滋賀で開業!」夢を持ち学校へ

 
   

自分自身で開業をする為に、鍼灸大学へ行こうと思っていました。
出身が滋賀だったので、「滋賀で開業や!」と考えていました。というのも、当時地元で心に決めていた人がいたからです。
そして僕は鍼灸大学、彼女が4年生で大学にそれぞれ入学しました。
僕は鍼灸大学を卒業し、その後は、柔道整復専門学校にも入学しました。
僕が、滋賀での独立に向けて奮闘しているとき、当時の彼女は就職活動の時期になりました。
そしてこんなことを言われてしまいました。
「就職活動していると、自分の可能性を大きくする仕事をしたい。だから関東の方に行きたい。」と言われてしまいました。
その時は「ああいいよ」と言ってみたものの、内心は「ヤバい!」ってなってって、でも自分で言った言葉を引っ込めることも出来ずそのまま別れてしまいました。

 
   

絶望の淵

 
   

当時それが唯一の目標で、その目標がなくなってしまったとき絶望の淵に立ちました。
当時は患者さんの為に何かをしたいというよりは、「自分の為に開業したい」という想いの方が強かったんですね。
生きる目的をなくしたように、「死にたい」ってずっと考えていました。
そうすると、何か希望を探すように本を読むようになったんです。
当時僕は専門学校に行っていて、その時自分の年代はみんな就職活動だったので、その自分自身で自分のことを突き詰めるということをその友達に聞いて、
「家族とは何か」、「お金とは何か」ということを自分に聞いて自分の言葉でノートにその言葉を書き綴っていきました。
今まで本を読むということがなかったので、本に書いてある知識はとても新鮮でした。
そんな生活の中で、松下幸之助さんの本に出会ったんです。
その本の中には、「自分の確固たる人生観を構築すること、それを20代前半でしろ!それが何よりも大切や!」と言っている本に出会いました。
そうして自分の人生観を確立するために、本を読んで「この本すごいな!」と思ったら、その著者に会いにいく。
そのような生活を繰り返していました。
そういう生活の中で自分の人生観を確立していきました。

 
       
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