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心のサポートから始めたい!

 
   

そして卒業してからまた途中で一回想いがぶれたんです。吃音のコンプレックスを克服して人前でしゃべる人がいることを知ったときです。
日本創造教育研究所で研修講師をされている湯之口さんという方です。

その時に「かっこいい!!研修講師になりたい!!会いにいきたい!!」
と思いました。そして、研修に参加するようになりました。
そうやって、研修に参加したり、たくさんの人の話を聞く中で、たくさんの人が悩みを持っているのでまずはその人たちの「こころのサポートから始めたい!!」という考え方が生まれました。実際に研修ではどのように改善するか等具体的な考えをしますが、その段階に達していない人も多いと考えたからです。
しかし、研修の講師になることを家族に猛反対されてしまいました。
そこで研修講師になることは諦めました(笑)

 
   

就職へ

 
   

この業界ってなかなか“治せる”ということまではできないんですよね。
それをきちっと治療し“治せる”人になりたいと思いました。
専門学校にいた当時、僕の知識の礎となるような技術や知識を教えてくれた先生がいて、その先生の講義を聞いて、実践して、わからなかったことを先生に質問するというようなことを繰り返していたら、あるとき先生に「岡井くん、うちの治療院で働かないか?」ということを言って頂いたんです。
しかし結局その治療院には行かず、その先生の一番弟子の方の元で働くことになりました。
この一番弟子の方というのが、僕の専門学校の友達のお兄さんでその友達から「うちのお兄さんの下で働かないか?」ということを言ってもらっていて、それを先生に言うと、「おお、あいつか。あいつの所だったら良いと思うよ。」ということを言って頂いたので、専門学校に在籍しながらその治療院で働きました。
卒業後はそこ一本で働き、実践しながらいろいろな知識と経験を身につけていきました。

 
   

熱い人たちとの出会い

 
   

「25〜26歳ぐらいには開業しよう」ということを考えていて、卒業と同時に開業する段取りで、動いていました。
開業を考えていたので、いろいろな治療院に見学に行ったりしていました。
その中の一つでスポーツ施設の横に併設されていた治療院の院長の萩本さんの下をオペレーションなどの勉強の為に訪れました。
当時はエグザスという施設で、ピープル(現コナミスポーツ)という会社が経営をしていました。
そして訪問してみると、いきなり治療院事業部で一番トップの方で花川という方が待ってくれていたんですね。
そして、いきなり「お前か!!萩本から聞いてるよ!!」と言われたんですよね(笑)
その後は治療院の見学をさせて頂いて、その後は、僕と萩本さんと、花川さんの3人で、夕方5時から、なんと夜中3時まで話し込みました(笑)
自分達の治療に対する想いや、自分達の業界に対する想いを語り合いました。
熱くて共感することばかりで、「あぁ面白いなぁ。この人達と一緒に何かしたら面白いやろうなぁ。」と思っていて、花川さんには「是非来ないか」ということを言われました。
でも僕はその時は開業する事で頭が一杯だったので、「僕開業するんで。またご縁がありましたらよろしくお願いします。」と一回断りました。
開業する場所も契約し、これから工事等をお願いするという段階でしたが、急遽実家に帰らないといけない用事が出来てしまい、開業の段取りを一回ストップさせ、全てを一度白紙に戻しました。

 
   

自分の好きなようにやってみないか?

 
   

それでどうしようかと思っていたら、花川さんが「今度心斎橋に店を出すから岡井君に任してみたいんだけどどうかな」ということを言ってくれてました。
しかも条件はほとんどなく、まだ何も決まっていない段階で、自分の好きなようにしてもいいということでした。
ぶっちゃけてしまえば、「何でも実験してもいい!」ということですよね(笑)
だからこんなチャンスはないと思って、ピープルに入社することになりました。
ホテルの5Fで、いろいろな制限があったなか、1年でピープルの中の治療院で患者数一番になったんです。

その時、萩本さんと花川さんと話をしていたことは当時会社の方向性として、治療院事業部として規模が大きくなったら、事業部としてじゃなく、完全子会社で治療だけの会社にするという話を会社からもらっていたんですよね。
だから目標を早くクリアして全国区の治療院の会社を早くしたいと思っていました。
開業だけが全てじゃないなぁとも思うようになっていました。
とにかく真剣に患者さんと向き合って、以前から考えていた心のサポートをしました。また、内装も居心地のいいように変えていって来てもらったら落ち着けるように工夫をしました。
そして心斎橋の治療院は単独で成果を出して予算に近い形を提示したんですよね。
その翌年からは現場に入りながらマネージャーというような半分半分な形で仕事をし、その次の年からはマネージャーとして仕事をしていました。

 
       
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