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難攻不落な材木問屋

 
   

一番印象に残っているのは、和歌山にある材木問屋で、誰が行ってもなかなか営業を取れないという難攻不落な営業先がありました。
大きな材木問屋なので、材木が山のように積んであります。その合間を縫って進んでいくと、奥まった所に時代劇に出てくるような帳場がありました。
そこにおばあさんが座っててて、システムキッチンのカタログを持っていくと「そこ置いといて」と言われて、そこから全くしゃべってもらえませんでした。
それから何回も足を運びましたが、行っても相手にはされず、隅っこの方で材木を大工さんに届けにいく準備をしている営業の方をただぼーっと見ているだけでした。
そんなある時、いつもの午前中ではなく、夕方に行くことがありました。
いつものように「相手にされんし暇やなー」ってぼーと材木屋さんの仕事を見てたら、材木屋さんは次の日の準備をし始めました。フォークリフトを使ってベニヤ板を積むのに一人でリフトに乗ったり降りたりしているんです。
その時に「効率の悪いやり方をしてるなー」とふと思いました。
「こんなん僕ちょっと手伝ったら簡単にできるやん」と思ってそしてちょっと手伝ったんです。


【人が困っていることをすれば、仕事になる】
そして次の日から毎日10分間だけ手伝いに行きました。
そんな生活を続けていて、一週間が経ったころ、10分間手伝った後に声をかけられました。

材木屋さん: 「薄井はん、明日空いてるか?」
僕:「ずっと空いてます!!」
材木屋さん:「明日6時に来い!」
僕:「わかりました!」

次の日材木を配送するトラックに乗せられて、和歌山の山奥の中に連れて行かれました。
そして材木屋さんは、僕のパンフレットをとって大工さんに「今回これでいったってや」(キッチンの機材はこいつの会社の製品で契約してやってくれ)と言ったんです。
すると大工さんは「わかった」と言い、そんな感じで他の所にも連れていかれ、その日のうちに契約をたくさんとれたんです!

帰りの車内で
僕:「なんでウチは今迄売れなかったんですかね?」
材木屋さん:「あのな薄井はん、材木屋ちゅうのは大工と一番仲がいいから、材木屋が頼んだら入れてくれるねん。でもな、材木屋には材木屋の範疇があんねや。流し台っちゅうのは、やっぱり水道屋に入れさせたらなあかんねや。水道屋さんが工事してくるからな。」
僕:「すみません。無理させまして。」

そして材木問屋に帰ったら、口さえも聞いてくれなかったあの帳場のおばあちゃんが、
「薄井はん、晩ご飯食べて帰り。」と言ってくれました。
昔からの材木屋なので、一日の終わりには従業員全員でご飯を食べるんです。
そこで一緒に晩ご飯食べさせて貰いました。
帰って店長に報告したら、「お前あそこで注文とってきたんか!?」とびっくりされて、店長は大急ぎで材木屋さんに挨拶に行きました。 この時の経験で「人が困っていることをすれば、仕事になる」ということがわかり始めました。


【おばあさんがくれたポロシャツ】
そして一年間が経った頃、新卒の時に「採用枠がない」といって不採用だった関西テレビの子会社から「空きが出たから採用できる」という通知を受けました。
一年経って営業の仕事にも慣れてきた頃でしたが、やっぱり自分のやりたいことへの気持ちは変わっていませんでした。
そして流し台メーカーを退社し、関西テレビの子会社に就職します。

そして辞めるときに材木問屋に挨拶に行くと、餞別にということで、あの最初は口をきいてくれなかったおばあさんにプレゼントを貰いました。
それは、ポロシャツでした。
でもそのポロシャツは、ウチの親父が着ても地味なぐらい地味なポロシャツだったんです。
でも、それはそのおばあさんが自分で選んでくれたってこと。
そのポロシャツを見た時に、思わず嬉しくて涙を流していました。
最初は全然口を聞いてくれなかったのに…

一年間だけでしたが、その時には営業の「いろは」も教わったし、働くということの意味なんかも教わりました。
そして、同時にたくさんの方々との繋がりができ、いろんな人に助けられているということを知る事ができたんです。


 
   

自分のやりたいこと

 
   

関西テレビの子会社で働いていて当時はいろんなことをさせられました。
いろんな部署を担当させられて、転勤もさせられました。
入社の時ちょうど一緒に入った同期がいて、その同期は一つのスイミングスクールことをだけを任せられて、二年経った頃には、副支配人並の頼られる存在にいるのに、僕はといえば、雑用や転勤ばかりで、歴然な差があると思って、「貧乏くじ引かされたー」と思っていました。

広告や編集長もやらされたし、ビルの防火管理者もやらされたし、様々な事をやらされて、いろんな所を転々としていて数年が経った頃。
急に上司に呼び出され「薄井、お前やれ」と言われて、フィットネスクラブの開業に携わることになりました。
その運営に携わる時、今迄してきた経験が全て活かされました。
結局、今迄やってきた仕事っていうのは、"やらされていた"じゃなく、"させてもらっていた"ということだったんですね。



【フィットネスクラブ開業】
フィットネスクラブに携わるとき、周辺のフィットネスクラブのロッカールームの幅も測ったり、いろんなフィットネスクラブにノウハウを聞きに行ったりしました。
何故なら僕は開業に関しては素人だから。
何も知らなかったからとにかく聞くことから始めたんです。

今までフィットネスクラブのフロントなどもやってきて、僕は当時フィットネスクラブのあり方に疑問を持っていました。
フィットネスクラブはインストラクターが建物内の配置などを全部設計をしていたんですが、エアロビクスやフィットネスをする場所が一番大きいんですよね。
でもロッカールームやシャワールームは狭い。
僕は今迄フロントしかしてこなかったので、トレーニングをせずシャワーだけを浴びる人もいるんですよね。

でもせっかくシャワーして奇麗になったのに、隣に汗ビッシャリの人がいたら嫌じゃないですか?
「じゃあロッカールームを関西で一番大きくしてやろう!」と思いました。
そしてフィットネスクラブから帰るとクタクタでもうお風呂にははいれません。でも、シャワーだけだと物足りないんです。ですから、シャワーのかわりに湯船と洗い場を設置しもっとゆっくりできるようにしました。

それと、辞めていくお客さんもたくさん見てきたんです。
いつも「なんでやろ?」と考えていて、ある時、「インストラクターはプロやけど、お客さんはプロじゃない」と気付きました。
仕事でへろへろになった後にフィットネスクラブに来てもなかなか頑張れないじゃないですか。
インストラクターは、「週3回来ないと効果ありません」というようなことを言うんですよね。

それって全くお客さま目線にたてていないと思いました。
無理せず、軽く歩いてサウナとお風呂だけの日だけでもいいんです。
トレーニングの指導はできませんが、、フロントでずっとお客様を見てきたお客様目線のプロとしてフィットネスクラブを作ろうと思ったんです。

その結果、とても辺鄙な場所で、他者が全く手を出さないような立地の悪い場所にも関わらず大成功したんです。

 
   

起業を決意

 
   

フィットネスクラブの開業に成功し、そこからは他のスポーツクラブや、プールの運営なども任されました。
そんな時、神戸六甲アイランドに新規オープン予定だった、世界一のウォータースライダー"AOIA"のオペレーションを手がけてくれという話がきました。
しかし、自社とクライアントさんとの系列会社の関係から上司には「その仕事はやるな」と言われました。

しかし、すでにクライアントさんからそのプロジェクトをする為に社員さんを派遣してもらっていて、その人達の人生を変えてしまっていたんです。
だからこそ僕はここで投げ出すことはできない「みんなもここで頑張る覚悟ができている。今更元の仕事に帰れない!」と思いました。

そして、「僕はこの仕事に懸けてますから。会社を辞めさせてください。」と上司に言い、僕は退社し、起業を決意します。
そして1993年6月、ウエルネスサプライが誕生しました。
もともと僕は社長になりたくて社長になったわけじゃないんです。
仕事に惚れてその仕事をしたいから自分でやらないといけなくなっただけです。
「自分がやらないと」という使命感があったんだと思います。
周りからはアホやって言われましたけどね(笑)

 
       
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