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宝石が当たり前にあった環境

 
   

もともと、宝石業というのは父が自宅で事務所を構え、自宅兼事務所という形でしていました。私が小さい頃は父の膝の上に乗って、父と一緒に宝石を手に取って見たりしていました。
私が「これ何ていう宝石?」というと父は優しく「〜という宝石やねんで」と教えてくれました。
子どものころから宝石は特別なモノというよりは、あって当たり前のモノで、宝石商になるのは必然だったのかもしれません。

そんな私ですが、小さい頃は通知表には必ず「落ち着きがない」と書かれていました。
単純にいろんな事をしたりしていましたね。
良く言えば「好奇心旺盛」
悪く言えば「いらん事しい」
という所でしょうか?(笑)
小学校3年生から中学校3年生までは剣道をしていて、心身共に鍛えられました。
中学校でバスケットをしていましたが、剣道との両立ができなくなっていき、中途半端につづけるのも駄目だと思い剣道一本に絞りました。

 
   

父と一緒に宝石商をしたい

 
   

「父と仕事をしたい」
中学校の頃に夢を持ち始めました。
当時、宝石の仕事以外はなかなか考えられませんでした。
小さい頃から宝石と接してきたので思えば当たり前のことなのかもしれません。
そして中学を卒業し、高校に行き、高校を卒業するときに、「宝石の仕事をするにあたって、宝石を輸入する時に英語はしゃべれた方が良い」ということで英語を学べるような学校に進学を決意し、当時流行っていたということもありアメリカの大学の日本校に入学をしました。
しかし、入学してすぐ、父が亡くなりました。
小さい頃から親しんだ父が亡くなりました。
父がいなくなったという事実がとても衝撃で、夢云々の話ではなかったです。
父が亡くなった後に私は「これからは自分で生きていかなければならない」と思いました。
そして、力を蓄える為に「いろんなことにチャレンジしていこう!」と思いました。
大学ではイベントを企画するサークルを作り、企業さんに資金提供の協力してもらうなどしてイベントを開催していきました。
一番大きかったイベントは「一万人のダンスパーティ」ですかね。あとは大阪のラジオ局のFM802とコラボレーションをしたり、FM802の宣伝のイベントをしたりしていました。
たかが学生が、企業をバックにつけ、社会に対して価値を提供するということは面白いと思っていました。

 
   

英語を身につけたい、カナダへ留学

 
   

ただ、英語の方はというと、海外の大学だといっても日本にある訳ですから、周りの友達も日本人ばかりですし、いくら外国人の先生だからって全く英語は上達しません。
一年間が経った頃、「このまま4年間いたとしても英語は話せるようにはならないだろう」と思いました。
自分勝手だとは思いましたが、無駄な時間とお金を使うことが嫌だったので、大学を辞めようと思いました。

そこで母親に頼みました。
「一年間で本気で英語を学んでくるから海外に行かせてほしい」

そしてカナダに留学します。
この時は「人生の中でこれほど勉強したことはない」というぐらい本当に一所懸命に勉強しましたね(笑)
その猛勉強のお陰で、日常会話程度ですが英語は話せるようにはなりました。

 
       
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