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「農業をする!」志高き父

 
   

僕は奈良県の生駒市で生まれました。父親は内装職人としてクロスやカーペットの張り替えなどをしていました。自宅は事務所兼用だったので、家には常に父の仕事道具やらなにやらが置かれていました。そんな環境で育ったのですが、ちょうど20年くらい前、僕が幼稚園くらいのときですね、父は急に「農業をやる!」とかいってね。仲間と農業で会社を造りました。(笑)まあ、父は主に生産担当だったようで。もともと父の実家は農家をしていて、父の若い頃、祖父は農薬で身体を悪くしたのが原因で亡くなったとかで、父には相当ショックだったのでしょう。「食の安全を守らないといけない」という想いから、「無農薬野菜」だけを作り始めたんです。今でこそ有機野菜、オーガニックとか無農薬っていうのは認知度もブランドもあるわけでしょ、当時はまだ風向きがキツイ。それこそ、「宗教?」といわれる時代ですよ。(笑)しかも子ども4人もいるんですよ。相当な覚悟があったのか、信念があったのか、ただのアホかでないとできないですよ。(笑)ぼくは、父は正しかったと思っていますし、すごいと思っています。父の背中が今の僕に影響している部分はかなりあると思いますね。

でも、小さい頃は自分の親の仕事が自営業というのがなんとなく嫌だったんですよね。
他の家と比べて「それが普通じゃない」と思ってしまっていたんだと思います。
サラリーマンの家庭のように、洋服箪笥を開けるとバーっとネクタイやらスーツやらが沢山あるみたいなことに憧れていましたし。(笑)ドラマや漫画に出てくる風景を見て、それが普通の家庭だと思っていたのかも。

 
   

龍峯先生との出会い

 
   

7歳の頃に親に書道教室をすすめられ、書道を始めました。字とか絵を書くのはけっこう好きだったんです。一番仲が良く、一緒に遊んでいた友だちが通っている書道教室を親が知ったみたいで。友だちもいるならまあ、通いやすいですからね。
その書道教室の先生が龍峯先生だったんですよ。
僕が最初に書道教室に行った時、先生はノートに漢字を書き僕にこう言いました。
「この文字を使って物語を書いてこい。」
それで、僕はその文字を使って物語を書いていくんですね(笑)先生はその物語を読みながら添削をしてくれます。添削が入るから、一応習字にはなっているのですが、他の生徒とは全然違うことをやっているんですよ。みんな決まったお手本を書いている。僕だけ違うんです(笑)まあ、楽しかったので、1年間くらいですかねぇ、物語作りをやり続けました。


【筆に持ち替える日】
そして1年が経った頃、「もう物語作りはいいだろう」ということで、みんなと同じことに取り組みました。毛筆も習い始めました。しかし、当時の僕は筆で文字を書くということが怖かったんです。今考えればなんで恐れていたのかわからないんですが、筆で文字を書くということが怖くてね。ある日、金網で遊んでいる時に落ちてしまって、右手を骨折してしまったんです。それを口実に(笑)しばらく休むことにしました。

腕が治っても「まだ治ってない!」というような事を言って書道教室を休んでいたんです。ある時急に、ふと思い出したように「あ、行ってみよう」と思ってね。書道教室に足を運んだんですよ。そして筆で字を書いてみたらこれが意外に楽しい(笑) 「あっ、これ結構おもろいな」と思ってそこから筆で書くのが好きになっていったんです。先生も「思ったよりうまく書くなあ」なんて言ったりね(笑)いやあ、でも本当になんだったんでしょうね(笑)毛筆独特の「トメ・ハネ」が気持ち悪くて怖かったのかも。(笑)

 
   

書芸コース

 
   

高校は「書芸コース」といって書道専門で学べる学科がある高校に進学しました。
当時は、書道で食べていくとかそんなことはもう全く考えていなくて、書道が好きということでその学校を選びましたね。面接の時に偉そうに、「書道で日本一になる」って言ったことを覚えています(笑)
書道教室って、だいたいみんな高校に進学する前までには辞めてしまうんですよ。
でも高校くらいから「習字」から「書」になるんです。
習字と書は違います。芸術としての「書」、習字というのは整った字を書くための習い事。芸術書に踏み込む前に、ほとんどの人が辞めてしまうんですよね。実にもったいない話だと思います。

それでまあ、書家の道に進むとか、当時は全く考えていませんでした。入学してすぐ、高校の書道の先生に、「お前せっかく書芸コースに来たんやし、高校生活書道一本でいけばええやろ。書道部入れ」と言われましたが、「嫌や。ださいし。」と思っていました。だってサッカー部とかのほうが明らかにモテるじゃないっすか(笑)
1年ぐらいはいろいろ他のことやったり、生徒会とかもやって。2年生になると生徒会長とかもやってたんですが、結局、書道部にも入って、副部長なんかしたり、夏休みは天理や吉野山で部の合宿があって。缶詰になってずーっと書いてましたね。そんなこともあり、賞をもらったこともあったり、嬉しかったですね。うちの書道部はレベルが高いほうだったと思います。先輩も同級生も後輩も、みんな上手かった。僕は下手っぴでしたが(笑)


【表現への違和感】
書道部はぶっちゃけてしまうと、実際地味で面白くなかったんですよね。
「道」のつくものはだいたいそうかもしれませんが、全く褒められないですしね。
褒められないし、認められないし、貶されてばかりですからね。(笑)そんな高校生活のある時に、書道の授業で「竹を書く」という課題が出ました。そのときに僕は、竹の動きや竹の姿形をイメージして「竹」と書いたら怒られたんですよね。「こんなん書道ちゃう!もっと書きぶりなんかで表現するのか書道や!」って言われて。そこで僕は「それは確かにそうかもしれんけど、ええんちゃうん?もっと新しい別の表現の仕方があってもええんちゃうん?」と違和感を感じたのを今でも覚えています。

 
   

道を考え始めた大学時代

 
   

大学は三重大学の教育学部に入学しました。書道の方は、そこ迄本気でやることはなく、暇があるときに書いていましたね。大学進学を決めるときに、担任であり、書道の先生とこんな話をしていました。

先生「山村、お前書道の道に進んだらええんちゃうか?大学の書道専攻があるぞ。」
僕「いやいや、でも書道じゃ食えないじゃないすか!?どうしたらいいんすか?世界変えたいんですよ。」
先生「いやいや、世界変えたいって言ってもなあ。とりあえず大学は行け。必ず行ってよかったと思える日が来るから。人生のうちの4年間や」

そんな会話をしていて、それで「とりあえずは教育の道にいく」ということになりました。
と言っても教育学や教育心理、国語と小学校教諭の免許をとって、書道とはほとんど関わりなかった(笑)当時は書道一辺倒になるのに抵抗していましたね(笑)だって、このまま大学で書道やっても、ただ高校の延長なだけだとね。でも、書道はやっぱり好きだったんですよ。何かしたいなぁとは思っていたんです。展覧会を見に行ったり、家でちょこちょこっと書いたりね

 
       
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