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社会へ!周りとのレベルの差

 
   

大阪に残れるかどうかで選んだものの、入社してからは一ヶ月間東京での研修がありました。
その研修で、証券についての基礎的な知識やビジネスマナー、様々なことを座学で学びました。
しかし、大学ではほとんど座って勉強しなかった私。
話を聞いていても到底話が分かりませんでした。
しかし、全くわからなかったからこそ、ひとついい癖がつきました。
それは、「わからなかったら何でも聞く」ということ。
証券のこと自体全くわからないというところからのスタートでしたので、全てを人から教えてもらわないと何もできないという状況でした。
かといって周りは、早稲田大学や慶応義塾大学など、高学歴な大学ばかり。
私はそこでかなりレベルの差を感じたのです。
しかし、アルバイトで得た現場での経験だけは持っていたので、「座学では駄目でも、営業に出ればなんとか成る!」と思っていました。
そして研修も終わり、大阪に帰って営業が始まります。
しかし、実際に営業へ行くと言っても鞄とパンフレットを渡されて「営業に行ってこい!」と言われるだけ。
上司からノウハウなんて教わることもなく、知識は研修で学んだことだけでした。
「営業に出ればなんとかなる!」と思っていても、実際は営業に出るということがとても怖かったです。
「怒鳴られたらどうしよう」とか、「断られたらいややなぁ」とか、できない理由を並べてしまっていました。
一日目や二日目はぶらぶらしていました。
三日目になり、「そろそろヤバい、やろう!」と意を決しました。
そしてチャイムを押しました。
『ピンポーン』
『・・・』
留守のようで安心した記憶があります(笑)
そして二件、三件とまわって行きますが、全く相手にされませんでした。
先輩にアドバイスを頼むと、「数で勝負や!」と言われ、毎日100件まわるように言われました。
しかし、負けず嫌いの僕は、やるからには一番になりたいと思ったのです。

 
   

人との繋がりに助けられ、”新人賞“

 
   

そして毎日300件営業に行こうと決意し、名刺とパンフレットを300枚もって配り終えるまで帰らないという生活を送っていました。
そうやって、頑張っていたので職場の先輩からもかわいがってもらっていました。
また、そのときの自分のスタイルとして、「何でも率先してやっていく」ということを心に思いながらやっていました。
飲み会の幹事をしたり、人が嫌がるような役割でも率先してやっていました。
そうやって、人のコトを気遣いながら生活していると、仕事の場面でも自然と出てしまうのです。
ある営業先に年配の方の家で、数日の間玄関先に大きな段ボールがおいてある家がありました。
行く度に段ボールが置いてあるので聞いてみました。
すると、「腰が悪くてな。息子が週末に帰ってくる時に奥に持って入ってもらおうと思ってんねや。」と言われました。
「僕やりますよ」という言葉が自然と出てきました。
それから、そのお客様とは一歩近くなったのです。
行くと毎回、コーヒーを出してくれたり、おやつをくれたり、一緒に話をしたり、休ませてくれるようになったんです。
あげくには、昼寝までさせてくれるようになりました(笑)
そうやって僕の中で休息の場となっていきました。
そんな生活を切り返しているとき、そのおばあちゃんから聞かれました。
「ところで大橋君。君は何をしに来てんねや?」
仕事の話をしてしまうとこうやってゆっくりさせてもらえないと思い、「いや、仕事の話は良いんですよ。」と言いました。
すると、「大橋君。あんたお客さんおるんか?おらんやろ?そんなら私をあんたの初めてのお客にしてくれ。」と言われました。
そして初めての契約をとることができたのです。
それだけでは終わりませんでした。
その初めてのお客様が他のお客様を紹介してくれたのです!!
今まで1日300件行っていたというコトもあり、いろんな方が僕のことを覚えてくれていました。
そしてお客様の紹介という力が加わりその年の“新人賞”を頂いたのです。
そして、2年、3年経つ頃には紹介が紹介を呼び、たくさんのお客様ができました。
そしていつの間にか、全社営業トップにまでなっていたのです。

 
   

退職、そして世界へ

 
   

しかし、そうなってくると転勤を言い渡されました。
東京に行って本社で勉強し、それを支社で教えてくれと言われたのです。
全社を挙げての初の試みで、私はとても期待されていました。
しかし、私は辞めることを決心します。
理由は”大阪から離れたくないから”。
毎晩毎晩、いろんな人に飲みに誘われて引き止められました。
「最年少で支店長やぞ!?」「年収1000万やぞ!?」と言われました。
しかし、お金の為だけに働いていた訳ではありません。
そんな生活の中で、地位や名声を求めるということが虚しく感じたのです。
いつかは父親の事業は継承すると決めていたので、その前に自分のしたい事をおもいっきりしようと思いました。
そしてかねてから憧れていたアメリカのロサンゼルスへ行く事を決意します。
しかし、今迄の流れからわかるように英語は全く知りませんでした。
知っていた英語と言えば、「This is a pen.」くらいでしたね(笑)
何をしていたかと言えば、出会った人の所を転々として暮らしていました。
出会う人、出会う風景、全てが新鮮なモノで毎日感動していましたね。
アメリカにはアダルトスクールというものがあり、ただで英語を教えてもらえる場所があります。
アメリカで出会った友人の紹介により、アダルトスクールに入る事により英語の基本も教えて貰う事ができました。
そして英語も話せるようになったので「アルバイトをしたい」と思うようになりました。
海外にもアルバイト募集のフリーペーパーがあってそれを見ながら見つけました。
選んだアルバイト先は寿司屋。
そして寿司屋でのアルバイトが始まります。

 
   

お客様から頂いた$200のチップ

 
   

飲食店での業務は慣れたものでしたが、やはり言葉の壁は厚かったですね。
だから最初は雑用ばかりでした。
そして、その職場には私にやたら厳しい女の人がいました。
床を磨いたあとも「まだ汚い」といってもう一度掃除をさせてきたりしました。
しかし、私は素直に頑張りました。
もともと自分の根本となるものが「僕やりますよ」ということなので一所懸命頑張りました。
その結果、最初はその人の方について一緒にいじめていた人も僕の頑張りをみてくれ仲良くしてくれるようになりました。
そして徐々にですが、なんとか接客できるようになってきた時、4名のお客様が来店されます。
僕は、お客様に注文を受けにいきますが、終止笑い声をあげていました。
「なんや楽しい人達やなぁ」と思ってると、実は僕の英語が下手すぎて僕の事を馬鹿にしていたらしいのです。
しかし、僕はそれどころじゃありませんでした。
聞き取れない注文を、間違いないように、何度も何度も「Pardon?」と聞き返しました。
そうやって何度も注文を聞き返すうちに段々とあちらから質問してくるようになりました。
「どこに住んでるの?」
「日本人?」
「何歳?」
最後に
「ロサンゼルス好きか?」
私は
「I LOVE!!」
“I like”のところを本当に好きだったので”I love”と本気で言いました。
すると、
「お前良い奴!今日から友達だ!」と言われたんです!
そして80ドルぐらいしかご飯を食べてないのに、なんと200ドルもチップをくれたのです!
※普通だと12〜16ドルほど
この出来事はそのお店始まって以来のことで、このとき飲食店とはお客様の感動を生み出すのに無限の可能性を秘めていると心で感じました。

 
       
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