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塾で出逢った尊敬する先生

 
   

僕の子供の頃の夢は、「塾の先生」になることでした。
きっかけは、小学校4年生の時に出会った塾の先生でした。 そもそも塾に行くきっかけとなったのは、今思えば恥ずかしいんですが、学校で、隣の席だった娘が好きで、その娘に尊敬されたくて、勉強しようと思ったんです(笑)。
というのも、僕自身は小学校4年生まで海外に住んでいて、日本語も上手くなく、学校の成績は最低でした。成績が悪く恥ずかしかったので、その娘に声をかけられなかったんですね(笑)。 そこで親に「塾に行きたい」と伝え、友達の通っていた塾へ通うことにしました。

その時、通った塾で出逢ったのが、大河内先生という大学生の先生で、学生結婚されていて、同じく学生である奥さんと、二人で下宿のアパートで塾をされていました。この先生方は、点数が悪い時は、居残り勉強や長時間の正座など、大変厳しい先生でしたが、愛情のある方で「直人くんは、絶対にできる子だから、がんばりなさい」と、成績の悪かった僕の可能性を信じてくれていました。子供ながらにその期待が伝わり、嬉しかったんだと思います。
僕は、この大河内先生夫婦のおかげで、勉強が楽しくなりました。そして同時に、「僕も大人になったら、塾の先生になりたい!」と思うようになりました。
また、先生方は大学生でしたので、大学生になったら、大学生は塾を開く権利があるものとばかり思っていました。この、とんだ勘違いのおかげで、後に何のためらいもなく、大学生で本当に塾を起業することになりました(笑)。

 
   

第二の夢 社長・医者

 
   

僕には他にも夢がありました。小学校6年の頃には、「社長になりたい」という夢ができました。 僕は神戸市出身なんですが、僕の祖父の祖父は、神戸で有名な、凄腕の貿易会社を経営していました。しかし、その後、祖父の弟が会社経営に失敗し、会社を潰してしまったんですね。 保証人になっていた祖父はこのことを大変残念がっていました。僕は子供心に「いずれ僕が家を再興したい!!」という想いを抱き、「将来は、社長になる」と夢を決めました。

また、中学校2年の頃は、医者になりたいという夢を抱きました。当時、僕の父親は転勤族で、単身赴任などでなかなか会えなかったんですが、そんな僕の父親代わりをしてくれたのが、先の祖父でした。
祖父は戦争には行けなかったほど、身体が弱かったので、僕は「この世で、祖父の身体を、最後まで諦めない医者になりたい」と思うようになりました。
でも塾の先生、社長にもなりたかったので、午前中は医者、昼は経営者、夜は塾の先生をしようという夢ができました。随分、欲張りですね(笑)。
その夢を描き、医者になる為の勉強をし、医学部を受験することになりました。

「おじいちゃんの為に医者になるぞー!」という想いだけで必死に勉強をし、いよいよ志望していた医学部を受験する4日前に、祖父は亡くなってしまうんです。僕は医者になる意味をなくしました。試験にも身が入らなくなり、浪人することになりました。

今だからわかることですが、「他人に、自分の夢の動機を見いだしてしまったら、その人がいなくなったら夢がなくなってしまう。夢の動機は自分の中にないと駄目なんだ」と気付きました。

 
   

大学へ

 
   

浪人の後、大学に進学。いよいよ大学生になったら塾の先生になる、という夢と、経営者になる、という夢を追い始めます。
親や知り合いから借金して経営するようでは、先が見えていると思い、自費で準備し、創業しました。家賃も生活費も自分で払いました。早く自立をしたかったんです。
だから僕は仕送りは一切いらないと親に断ったのですが、母親は優しいですからね。毎月僕の口座に仕送りを振り込んでくれるんですね。そのお金には一切、手をつけなかったから、親には心配をかけるかもしれないと思い、引き出すだけは引き出して、貯めておいたんです。そのお金は、塾が軌道に乗った頃、全て親に返しました。

 
       
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